starposの日記

思ったこと感じたこと考えたことを書く

自分を世界に晒す決意

フューチャリスト宣言梅田望夫茂木健一郎 ちくま新書
という本を今読んでいる。

僕はこれまでインターネットで情報を発信することにある種の恐怖を抱いていたのだと自覚した。ブログを書く人に対する誹謗中傷、炎上などはきっと怖くないだろう。2chを見るようになってもう7年くらいたつと思う(2001年くらいから)から、そういうレスポンスに価値はないし、がっかりする必要もないということは早いうちから悟っていたように思う。何が怖いかというと、自分という存在を看破されることに対しての恐怖であると思う。自分が信頼している、認められたいと思う人に、自分が大した人間ではないと思われることである。それを想像すると、ぞっと恐ろしくなる。

ブログを書くということは、ある種のアイデンティティを晒すということだ。つまり、リアルな僕という人間がどうしても染み出してくる。実名がばれる恐れだってあるし、うっかりミスでリアルな僕とブログでの僕がつながってしまうこともありうるだろう。ネット用の人格とリアルな人格は分けることができるのだろうか?不器用な人間にそういうことができるとは現時点ではあまり思えない。

稀有な心配ということは自覚している。なぜなら、僕は今、大した人間ではないからだ。実世界でもネットの世界でも何のプレゼンスもない、なぜなら、プレゼンスを高める努力をしてこなかったから。自分には価値があると自分では信じながらも、そうでないことが露呈するのが怖かったから。人にどう評価されているかを知りたいと思いながらも、それを知るのが怖かったから。

なんという悲観的な考え方だろうか。怖い怖いと言って、結局何もしないのだ。これを思想的な引きこもりというのではなかろうか。これまでの27年間の人生で、僕はいつの間にこんなつまらない人間になっていたのだろうか?

この本の中で語られている
「お前は何者だ?これまで何をしてきて、これから何がしたい?」
という問いかけにどうやって答えるかを考えたときに、これを常に自分に対して問いかけることこそが、生きることなのだと思った。

「インターネット」は可能性である。自分という人間をもっと知るための、自分を成長させるための、可能性である。そのことは多くの場所で語られているし、僕もそう思っている。だから、恐怖心がなくなったわけじゃないけど、きっと痛いこともあるだろうし、凹むこともあるだろうけれど、きっと大きな喜びもあるはずだ。得られるものが、失うものよりも大きいことを期待して、全ての他人からのレスポンスを受け入れることを覚悟して、僕という人格をネットに晒していく決意をここに記す。