starposの日記

思ったこと感じたこと考えたことを書く

私にとっての「死」

1 年ちょっとぶりになんか徒然書こうと思ったら,まさに 1 年ほど前に下書きした自分の文章が出てきた.
ほぼそのまま公開する.

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彼女の回りには「死」がいつも付き纏っている.彼女の知人が死んだと聞かされる度に,いつもそう思う.

これまで何人?私が直接会ったことのある知人はいないが,10人以上,亡くなっている.

単に友人が多かったからだけだろうか.

彼女の娘がこの前死んだ.そして元夫も後を追うように死んだ.

私は彼女を励ますために,「俺は死なないから,少しは安心しろよ」と言おうと無意識に思ったが,完全な死亡フラグだったので,言うのを控えた.

私はまだ物心ついてから一度も葬式に出たことがない.4 歳のときに祖母の葬式にはいたらしいが,まったく記憶がない.いや,長時間の正座で足が痺れた記憶があるので,おそらくそのときのものだろう.しかしその記憶に悲しみは付随していない.人の死を悲むことのできる年齢でもなかったのだ.

数年前に買った礼服は結婚式でしか着ていない.しかし,私には年老いた親類もいるし,いつかは出ることになるに決まっている.2 年程前,祖母の弟が亡くなったが,これまでの人生で数える程しか会っていないし,祖母がいなければ親戚付き合いも切れているくらいの交流,しかも地元だったので,葬式にいく必要性を感じなかったし,その要求も家族からはなかった.私の親族の場合,葬儀出席の義務が生じるのは 3 親等以内のようだ.

死は徐々に,もしくは突然,しかし必ずやってくるものだということは承知しているつもりだ.少なくとも自分自身の死については 10 代のころにたくさん考察したと思う.

結局行きついた結論は,仏教的なものだった.ただ,来たる死をそのまま受けいれるべき.しかし,自らの生きたいという本能に無理に逆らうべきでもない,不安になる必要もない.必然は偶然,しかし偶然もまた必然.この先起こることは,運命であると同時に,自分の行動の結果でもある.死後の世界などあっても良いしなくても良い.あればあったでどうするかはそのときに考えればよいし,なければ,それについて悩む必要もない.ただ,いつ死んだとしても,その瞬間をもし意識できたならば笑ってそれを受けいれられるような人間になりたい,とは思ってきた.それが後悔のない人生というものだと.

彼女がうちひしがれているのは,理解できる.自分と関わりの深い人間が自分より先に,それもまだまだ若いうちに死ぬのは実際に感じたことがなくても堪えるに決まっている.今の私が彼女に言えることは,ごくごく当たり前のことしか言えない.

  • こういうときに悲しく,つらいのはあたりまえだということ.
  • こうなったのは誰のせいでもない,ということ.
  • それでも生きていかなくちゃいけないこと.人生を全うしなければならないこと.

所詮生き残っている側のロジックだが,私は,死んだ人間の人生を,生き残った人間は背負って生きていくものだと考えている.彼等がやり残したこと,彼らの価値観,彼等の想い.全部ではなくても,一部を自分の人生に反映させていく.知的生命体にはその義務があると考えている.個体では時間に限りあるが,遺伝子のみではもはや時空を越えた存在になれない生物になってしまった我々にとって,その必要性を感じるのは自然なことだと思う.
死んだ人間は彼,彼女と関わりがあった自分が生きている限り,自分の中に存在する,と言い換えてもよい.遺伝子は,子孫を残せば時間を越えるが,そうでないものは,こういうやり方で時間を越えることが出来るのだと思う.