starposの日記

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NEO 日本語 -英語を日本語の一部として取り込む未来予想-

楽天が英語公用語化するという記事を最初に見たのは 2ch のニュー速だった.これまで数年間,「避けられない英語による日本語の侵略」に関連する話題に触れる度に,日本語の出版物は今後どんどん減っていき,日本語を使わない日本人が生まれてくるかも知れないという,文化を植民地支配されるという危機感もあり,日本人として悲しい気持ちになり,日本人がグローバルに活躍すると同時にこれまで日本人が培ってきた文化教養と共にあった日本語が生き残る道はないものか,とずっと思っていた.


確かに,専門書や論文は英語の方が最先端で,質が高いものが多く存在し,英語なしでは生きていけない.だが,それ以外で英語を使う機会は,おれにはほぼなかった.日本語を使えない人とのコミュニケーションのために仕方なく使っていたという言い方の方が正しい.国際会議に独りで参加したこともあるが,英語ネイティブの早口はさっぱり聞き取れなかった.おれは日本語ネイティブだ.理解が難しくない内容であれば英語よりも日本語の方が 5 〜 10 倍は速く読めるし,頭が疲れない.専門以外のことであれば,教養生活政治経済云々などは日本語と翻訳で事足りる.単に,あるテーマに関わる人口の問題なのだと思う.日本人が 10 億人いたら,情報の取得に関しては専門分野でも日本語で困らないと思う.もちろん英語が公用語である限りは最先端よりは少し遅れるが.その英語を翻訳してくれる人々がある程度いるかどうかなのであると思う.


件のニュースに関するブログ記事をいくつか読んでいたら,唐突に「NEO 日本語」というキーワードが思い浮かんだ.去年おれが一部の人に NEO ニートと呼ばれていたことと関係あるのだろうか,ということはどうでもよい.将来の日本語は,英語が日本語の中に自然に埋めこまれて使われるようになる,ということだ.希望の持てる未来予想だ.


みなさんは,日本語で書いているんだけど,専門用語で使っている英単語に該当する日本の単語が思いつかなかったり,調べてみてもしっくりこなかったり,そのままカタカナにするのもなんか情報が失なわれるような気がして,アルファベットのまま文章に埋めこんでしまった経験はないだろうか.おれはたくさんある.NEO 日本語とは,日本語の中にごく自然に英単語が埋めこまれたものを指す.


日本人は,漢字を輸入し,カタカナやひらがなを発明した.英語は縦書き文化と相性が悪いため,対応する漢字やカタカナの単語を作ってごまかしてきた.しかし,縦書きさえあきらめれば,ごく自然に英語を混ぜることに抵抗はあまりない.そして,インターネットで流通する日本語はほとんど横書きである.もちろん埋めこまれた英単語や英文の意味が相手に伝わらなければ意味がないが,日本語だけでも伝わらない単語や文はいくらでもあるので,違いはない.つまり,英語の文法を一通り理解して,分からない単語があっても,辞書を引けばなんとか意味が通じる,という前提が日本人の間に出来れば,NEO 日本語が使われることに何の問題もない.そして,なにより重要なのは,残念なことに日本語を使えない人とコミュニケーションをしなくてはならなくなったときは,NEO 日本語の一部である英語のみを使えばよいだけの話である.簡単でしょ?


他の言語をよく知らないので,本などで知った俄知識によると,日本語は情緒や感性の表現という点において,とても優れているらしい.自分の体験から一例を挙げる.おれは擬音語が大好きだ.これを多用する人は頭が悪いと良く言われるが,少ない道具で意味が伝わるのだから,大変便利である.とくに正確性よりも,なんとなくの感覚を理解して欲しいときには絶大な威力を発揮する.さらに,表意文字表音文字が絶妙なバランスで合体している言語は他にない気がする.これは,書き言葉において,主に意味を伝える前者と,区切りとして使う後者の実に良い組み合わせなのである.日本語で文章を書いているときに,ひらがなが多すぎても分かりにくいし,漢字が多すぎてもすんなり入ってこないときがある.そのようなときは,わざと重要でないところを一部ひらがなで書いて解釈しやすいようにバランスさせる.日本語を便利だと思い,使う人がいる限り,日本語は死滅しない.英語を取り込んで日本語の一部にしてしまう器の大きさがあってもよかろう.


英語コンプレックスというものがどうもあるらしい.英語をまったく使わなくても生活できているくせに,どこで洗脳されるのかよく分かっていないが,おれも英語を道具として使うようになるまではそのようなコンプレックスがあったように思う.おれは大学4年生になるまで,英語の必要性を真には感じなかったのだ.本当だ.学生時代に英語を勉強する気にならなかったのも仕方がない.今日,NEO 日本語という概念を思いついて,そのようなコンプレックスは完全に過去のものとなった.


NEO 日本語が使われるようになった日本では,英語コンプレックスはもはやなく,英語を使うことに抵抗のない日本人がいるだけである.そのとき,それはもはや NEO 日本語でなく,ただの「日本語」である.それこそが,目指すべきグローバル化なのではなかろうか.